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  • てんゆう(天有顕道) が更新を投稿 5年 2か月前

    あらかじめ申し上げます。
    これは一霊能者の主観であり単なる戯れ言と受け止めてください

    京都に職場があるのだが、いろいろ京都の神社仏閣を訪ねて思うが神々って結構
    「無機質」(命のぬくもりを感じないさま)な方々が多いな。

    一般的な神社のお参りの作法
    1、鳥居を通る前に一礼
    2、正中を避けて歩く
    3、手水舎で手・口を清める《右手で柄杓(ひしゃく)をとり、左手を清めますその後左手で柄杓をとり右手を清め口をすすぐ》(左利きの方は逆でも良い)
    4、二礼二拍手一礼(二拝二拍手一礼)
    5、願い事を口に出して言わない
    6、帰るとき鳥居を出た後に神社に向かって一礼(これを怠る方が案外多い)
    7、夜間の参拝は避ける(正月や縁日を除く)(京都貴船神社などは明るいうちは良縁の神様ですが、
    夜間は呪怨神社に様変わりする。俗にいう丑の刻参り)
    8、同日に複数の神社へ参拝すると願いが無効になる(同じ神社境内にある場合を除く)
    9、神社の由緒を知りもせず勝手に願い事だけする行為は無礼に当たります

    歴史上の人物で神が加担したとされる人物の代表は「織田信長」幼少のころから暗殺や討死の危機を乗り越え
    武田信玄、上杉謙信両名を滝川一益の配下「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ)」に暗殺させたと言う
    「天下統一目前まで上り詰めたが、ここで初めて「慢心」してしまい自ら神と称し有料で一般人に参らせた
    神々も見切りをつけた。

    最期の情けとして本能寺の変2時間前、貝を納めに来た商人が「明智光秀さまが京へ向かい進軍中、道中周辺の
    旅人を切り殺している」と報告したが門番は先ほどまで碁を嗜んでいて眠りについたばっかりで誤報だと
    自分が手討ちにされることを恐れ「夜が明けてから報告する」と答えた。
    そこで命の糸が切れてしまった。

    もう一人有名ではない方ですが「鈴木貫太郎」

    生涯に2度の暗殺未遂を経験している(二・二六事件、終戦時の宮城事件)が、幼い頃から何度も死にそうな目にあった。
    3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、海軍入隊後も夜の航海中に海に落ちるなどの
    事故に遭遇しているが、その度に奇跡的に助かった。
    特に二・二六事件では頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重症ではあったが懇意にしている外科医が戒厳令下青年将校の
    検問を知り合いである理由と鈴木侍従長は絶命されているので、普通の往診と思い通してしまった。

    奇跡的に命を取り留めたが大東亜戦争突入

    敗戦濃厚になり戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭に代わり首相に任命されようとしたとき「とんでもない話だ。お断りする」
    と答えたが、天皇陛下より鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、
    どうか曲げて承知してもらいたい」勅命を受け承諾

    組閣人事では反対しそうな人物に大臣要請をし断っても「あの時大臣に要請したのに君は固辞したのに意見を言えるのかね?」
    と抑え込むし表面上は戦争継続についての意見を尋ねられた時、鈴木は「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ!」
    と自分の思いを隠し発言している。

    8月6日の広島市への原子爆弾投下、9日のソ連対日参戦と長崎市への原子爆弾投下、15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で
    終戦工作に精力を尽くした。昭和天皇の希望は「軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」というものであり、鈴木は「天皇の名の下に起った
    戦争を衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない」と考えていた。

    昭和20/8/10 皆の意見が出そろった後「聖慮(天皇陛下の意見)を以って本会議の決定と致したいと存じます」とポツダム宣言を受諾し終戦が決定された。

    もし鈴木貫太郎が生きていなければアメリカはオリンピック作戦(九州四国占領計画)ロシアの南下は止まらず又、農耕地に後のベトナムで使用された
    「枯葉剤」をB29を使用して散布計画もあった、3発目の原爆は京都、4発目の原爆は台湾に投下予定だった。

    怖い話だな。(参考 ウィキペディア、鈴木貫太郎、織田信長PHP書籍、日本の一番長い日)